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11話

10話
新古典主義(アカデミック)の教育を受け、美術アカデミーの推奨するイタリア留学も果たしたジェリコーは、 結果アカデミーの在りかたに疑問を持つようになります。

「(略)…私が思うに、美術学校に入った若者凡てが、画家となる資質の凡ゆるものを備えていても、同一の模範を模写しある画面では同じ道を辿って、数年間一緒に、同じ影響を受けて学習するのは危険ではないだろうか? また、各人に特有な、自然美を理解する多様な方式を、ある種の、独一の、同じ感情の中に溶解してしまわないだろうか?(芸術構造の問題に捧げられたジェリコーの文章)」
"ジェリコーとカラヴァッジョ" アントニオ・デル・ゲルチョ著 目形 照訳 より抜粋

「反アカデミー」こそが近代絵画のはじまりだったのかもしれません。

新古典主義である美術アカデミーの教育が重視したものとは、デッサン、そして均衡のとれた構図であり、色彩はデッサンに付随するもの として軽視されていました。

新古典主義の開祖の画家ダヴィッドの残した信念「新古典主義こそ美術の本道である」。
これを、頑なに守りすぎたアカデミーは以降どんどん保守的になってしまい、色彩や感覚を重視した印象派が登場すると、 サロンは印象派の画家たちを否定しました。
デッサンを重視するアカデミーからすると、光をとらえ、「物質の形状」を変化させて描く印象派の画家達は デッサンの知らない(基本ができない)画家として彼らを嘲笑しました。

1863年のサロンでは、おびただしい数の印象派の作品が拒否され、あまりの数に画家達が抗議し、拒否された作品を 集めて「落選展」が開かれる事態になってしまいました。


オノレ・ドーミエによるサロンの風刺画
今年もまたヴィーナス…、いっつもヴィーナスばっかり!…

オノレ・ドーミエによるサロンの風刺画
展覧会の観客「君は今年のサロン展でなにが一番良かったと思う?」「ビール」


(2点参照・国立西洋美術館)
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