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最終話
「メデューズ号の筏」の展覧会を終えてからもジェリコーはしばらくイギリスに滞在し創作活動を続けていました。
その時に好んだ題材は、イギリスの都市生活の様相など名も無い人々の街角のワンシーンを描いたもの、そして競馬でした。
言うまでも無く英国は競馬大国で、少年時代から乗馬を嗜み自他共に認める馬マニアのジェリコーは、サラブレッドを駆使するイギリス競馬に大喜びし、スケッチブックをもって競馬場をよく訪れていたそうです。
エプソムのダービー
足の動きが通常ならばありえない形に描かれている。これは疾走する馬の「速度」を表現したため。


イギリスの風土や競馬に心を癒されつつも、ときどき発作のように鬱病がよみがえるのか、ジェリコーはロンドンで一度ならず自殺を試みたと同行した画家シャルレが証言しています。

順調な創作活動さなかの1821年12月、坐骨神経痛と肺疾患が発症しジェリコーの健康状態はひどく損なわれ、フランスへ緊急帰国しました。

フランスへ帰国後、危機は脱したものの小康状態でジェリコーは創作活動を続けていました。創作しなければならない状況にあったからです。
イギリスの展覧会で得た大金を全て、ジェリコーは親友デドルー・ドルシーと共同で人造石の製造所に投資しました。しかし製造所の経営はうまくいかず、あえなく破綻。
もともとジェリコーは母親から一生働かずとも生活できるほどの莫大な遺産を相続していましたが、このお金もつぎ込んでしまったようで、借金まで抱え てしまいました。(どうもインチキ業者に騙されたようです。/(^o^)\ナンテコッタイ)
自身の人造石の製造所をモデルにした風景画
この頃になって生まれて初めて、ジェリコーは生活のために創作をすることになります。(ドラクロワとは大違いです)
依頼を受けて描いたものは、ジェリコー独特の作風が抑えられた作品が多いのが特徴です。

ちなみに、ジェリコーのお父さんの本業は法律家ですが、副業としてタバコ産業に出資したところボロ儲けしたそうです。 お父さんの商才はまったく受け継がなかったんですね…。
この頃にジェリコーは、ルーヴルの元館長のルイ・ニコラ・フィリップ・オーギュスト・ド・フォルバン伯爵から推薦を受けて、「メデューズ号の筏」をヴェルサイユの歴史ギャラリーコレクション の一点として国家買い上げを希望しましたが、行政はこの提案を拒みました。(以後フォルバン伯爵は「メデューズ号の筏」を支持しつづける)

そして1822年、2度の落馬事故を起こし、脊椎カリエスを患います。(どうやら傷口を消毒していない刃物で自分で切ってしまい そこから感染したそうです)

しかし、この状況でもジェリコーは作品を描き続けました。

ジェリコーの後期の傑作として、「偏執狂(モノマーヌ)」の連作があります。
名前の示すとおり、"精神病患者"を描いた肖像画です。
これはジェリコーより4歳年下の精神科医エティエンヌ=ジャン・ジョルジェのために描いたとされていますが、 作品が制作されるにいたった経緯は諸説あり、
・ジョルジェが精神病の研究や授業に使用するためにジェリコーに依頼した説
・ジェリコー自身がジョルジェの患者であり、治療費のかわりに贈ったという説
など、現在も正確な理由はわかっていません。(後者の可能性の方が高いのでは?と言われていますが…)
表情以外はラフに描かれた狂気に満ちたこの作品でジェリコーは、絵に人間の内面すら描いてしまったのです。
(ジェリコーの性格からして、精神病院へ実際赴いて描いたのではないかと言われていますが、これも定かではありません。 )

(2012.11.15追記)最近の研究では後述する医師ピネルの弟子であるジャン・エティエンヌ・ドミニク・エスキロルが偏執狂 の研究のさい、200点以上の狂人のデッサンを発注したという記録から、ジョルジェではなく、エスキロルによる注文ではないかという仮説も発表されています。

「ねたみ偏執狂(あるいはサルペトリエールの狂女※1)」
何事につけ、激しい嫉妬の発作を引き起こすねたみ偏執狂の老女。"ハイエナ"という恐ろしいあだ名で呼ばれていた

「人さらい偏執狂」
ひとりでいる子供をみると自身を父親と思い込み、さらってしまう人さらい偏執狂の男性

「窃盗偏執狂」
窃盗壁のある男性。
「賭博偏執狂」
ギャンブル狂の老女。
「軍令偏執狂」
自身がフランスの軍師であり、毎日戦闘を指揮していると思い込んでいる男性。首に下がっているものは当時の警官バッジ
肖像画のモデルはいずれも不明。
10点の連作でしたが、現存するのは5点のみ。(行方不明の5枚はイギリス人に売却したあと行方知れず…。行方不明の作品は「殺人偏執狂」とか もっと怖そうなものがあったらしい…)

(※1)サルペトリエールは病院の名前。
それまで精神病患者は鎖に繋がれ、人間扱いをされなかったのですが、精神科医ピネルによって、初めて鎖を解き放たれ "患者"として治療が開始された病院です。
「サルペトリエールの収容者を解放するピネル」ロベール・フルーリ画


1823年の5月、もう一度「メデューズ号の筏」の国家買い上げを提案するも、また拒否されます。
この年からカリエスが悪化し、床につかざるをえなくなります。
秋ごろから絵筆すらもてない状態になり、肉体的苦痛にたびたび襲われ、ジェリコーは日々苦しんでいました。
見舞いに来た友人に「せめて作品を5点だけでも描いていたらと思うのに」と嘆いていたそうです。
自分の過去の作品にも自信が持てなくなってしまったようで、病床でジェリコーはジャマールに売れずに残っていた「突撃する近衛猟騎兵士官」の絵を 消すように指示しましたが、ジャマールは曖昧な返事をして実行しなかったそうです(ジャマールマジGJ!!!!!)

翌年の1824年1月19日 もはや手遅れの状態で最後の外科手術が行われました。
手術中、手の施しようがないジェリコーの肉体を見て青ざめている執刀医に対して、ジェリコーは手術を続けるよう促したそうです。

手術後に知人と交わした会話を一部抜粋します。
「手術は大丈夫だったのか?」
『大丈夫だ……。非常に面白かったよ。この死刑執行人たちが私に10分間下手な手術をしたのを思ってみたまえ』
「ひどく苦しかったんじゃないのかい?」
『それほどでもないさ…。私は他の事を考えていたんだ』
「何を考えていた?」
『一枚の絵についてね』
「それはどんなもの?」
『どうってことのないものなんだ。私は鏡に向かって床の中で頭をぼうっとさせていたんだ。それで、彼らが私の腰をいじっている間中、私は肘で身を起こしながら 彼らがやっていることを眺めていたんだ。ああ、もし私が元気になったら、不遜にもアンドレアス・ヴェサリウス※2の解剖図の対となるものを制作することを 君に明言するよ。私は生きた人間をつかって解剖習作を行うつもりだ』
「ジェリコー展図録より抜粋 毎日新聞社」
病に抗いながら、貧欲に学ぶ意欲を保ち、志し高く野心を最後までジェリコーは捨てませんでした。

(※2)アンドレアス・ヴェサリウス、解剖学者であり医師。人体解剖学の権威ある本「ファブリカ(人体の構造について)」の著者

そして、その一週間後の1月26日午前6時、「メデューズ号の筏」がギャラリーに飾られた姿を見ることなく、ジェリコーはこの世を去りました。
死ぬ間際に「まだ何もしていない」という言葉を残して。(作中のパレットは本当だと思います)
32歳という早すぎる死。
ジェリコーの遺骨はぼろぼろだったそうです。
彼の死についてドラクロワは日記以外にも手記に「尊敬すべきジェリコーの死は美術が現代において経験しうる最大不幸のひとつに数えるべきである」と記しました

ジェリコーの死をゲラン先生のアトリエで知り合った友人の画家アリ・シェフェールが描いています。
ベッドの奥には自身の作品が多くかけられ、手前で号泣している人物はジェリコーの親友、ドルシー。
奥はジェリコーの主治医、もしくは知人であるブロ大佐。(奥の人物はどうもはっきりわからないです。作中では父親に変更させてもらいました)


ジェリコーの死後すぐに、作品を保管していたアトリエが火事になり、作品の大半が灰になってしまいました。 (本当、この人どんだけついてないのよ…)
ジェリコーの現存している作品が非常に少ない原因は十数年という短い画家人生であること、友人に絵を気前良くあげてしまったこと、 そしてこの火事が原因です。

その後、焼け残ったジェリコーの作品類と遺品は1824年11月2〜3日にオークションが開かれ売り払われました。
このオークションにはジャマールやドラクロワも参加したそうです。総売り上げは約52000フランでした。

ドラクロワはジェリコーの作品以外にもティツィアーノ、ルーベンス、レンブラント、ベラスケスの模写画を18枚購入しました。
まだ売れる前で極貧だったドラクロワは、購入総額957フランを支払うのにめちゃくちゃ苦労したそうです。
(ちなみにドラクロワは30すぎまで極貧生活を送っていました。「民衆を導く自由の女神」発表後もまだ貧乏だったらしいです…。なんという"ドラマチックな苦労話"…)

その後、「メデューズ号の筏」は親友ドルシーの根気強い交渉と尽力よって、ついにルーヴルのコレクションに入りました。
ジェリコーの死から10ヶ月後のことでした。

ここで何度も出ているジェリコーの親友ドルシー。
ドラクロワやシェフェールと同じく、ゲラン先生のアトリエでジェリコーと知り合い、親友となるのですが、実はジェリコー伝を語る上で非常に重要な人物なんです。 病床のジェリコーを世話していたのも彼です。
しかし、友達ポジションをドラクロワにしてしまったので作中登場させるすきまがありませんでした。
本当ごめんドルシー…。
本編の唯一の登場シーン…

ジェリコーの遺骨はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、それから墓碑が出来上がるのは10年以上先の1839年の事でした。
現在のペール・ラシェーズ墓地のジェリコーの墓。

この墓地にはジェリコーの他ドラクロワやモディリアーニやオスカー・ワイルドのなどたくさんの有名人や著名人の墓もあります。

ジェリコーの作品は、ドラクロワをはじめ、マネやクールベ、彫刻家のロダンなど、そして現在のクリエイターたちにも様々な影響を与えています。
本国フランスでは「メデューズ号の筏」は何度か映画化されているようです。(筆者は見れていませんが…。機会があったらみてみたいです)

(問題あったら消します)みっけたDVDのジャケット。ジェリコーの絵から発想してできた映画らしいです。ものすげー探し回ったけどいまだ手に入りません…。ぐぬぬぅぅ。
↑ジェリコーらしい

単なる「世紀病」から脱した、人生そのものが「ロマン主義」的なジェリコーの生涯に熱情をもって作りあげられた作品たちは、 圧倒的な存在感を放つ「メデューズ号の筏」をはじめ、ルーヴル美術館やルーアン美術館など各地で現在も展示されています。

ジェリコーの血脈は現在も続いているのです (了)

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もともと自分のアンチョコ用として書きはじめた表紙の下のチラシの裏。
想像以上に時間がかかってしまい、今回やっと全てが終わりました。お待たせして申し訳ありません。

「フランスのロマン派絵画」の開祖であり、近代絵画の扉を開いた画家といっても過言ではないテオドール・ジェリコーは 西洋絵画史をあつかった書物では必ずといっていいほど、「ロマン派」の項で「メデューズ号の筏」を 描いた画家として触れられています。しかし、それらの書物では描いた事件と発表された当時の世間と政府の反応を 大まかに記しているものがほとんどで、画家ジェリコーの細かな情報がほぼ省かれています。

その上、ジェリコーは日本ではあまり知名度もなく、残念ながら文献も数少なく、その数少ない文献も 全て絶版となっており、知る機会すら無いと言うのが現状です。サイトも探したのですが、ドラクロワはとても素敵なサイト様を発見したんですが、 ジェリコーは無かったんですよね…。(チェック漏れもあるかも知れませんが…)

手前味噌で恐縮ですが…、この画家と「メデューズ号の筏」について少しでも知っていただき、少しでも何かを残せたらと思い、筆を執りました。 (ここまで書いてからふと思ったんですが、情報サイトを作った方が早かったかもしれないとか思いはじめてきた…。せっかく資料集めたし暇ができたら作るかなぁ…)
反省点も多く連載中もずいぶん悩みましたが、描いてよかったと思っています。
でもメデューズ号以前がほぼ描けなかったのがちょっと残念ですね。

32年という短い生涯にジェリコーは何を思い、何を成そうとしたのか。
少しでも興味をもっていただけたら嬉しい限りであります。

最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。
おとぴろ

彼女の名前の由来はルーヴル美術館でドラクロワが描いた「アポロン宮天井装飾画」の壁画から。
実は作者はこの壁画見れてないです…。なのでリベンジすべく日々頑張り中
(ゲラン先生も絵にしてます。ジェリコーはこの手のテーマは嫌いだったらしく描いていません)
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