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5話

4話
※※作中の素画はこの時点で制作されていないものです※※

ウジェーヌ・ドラクロワは、フランスの上流階級の家庭に生まれました。
しかし、7歳の頃父を、16歳の頃に母を亡くし、更に一家が破産。 受け取った遺産は銀の皿2組と水差し1個のみという、若い頃から苦労が絶えない人でした。
ちなみに父親は外務大臣や県知事を勤めた政治家のシャルル・ドラクロワ、そして母親は宮廷家具職人の娘ヴィクトワール・ウーバンの 二人の子とされていますが、実父は40年間フランスの政治の中心にいたタレーラン(※1)という人物ではないかという説もあります。
(タレーランとウジェーヌの容姿が似ていること。ウジェーヌが生まれる頃、シャルルは病気で子孫を残せない身体だったなど)

ドラクロワが画家を目指したきっかけは8歳頃のルーブル美術館見学だと言われています。
その頃のルーブル美術館はナポレオンが勝利品としてヨーロッパ諸国から持ち帰った美術品であふれており、ダヴィンチの「モナ・リザ」をはじめ ラファエロやルーベンスの代表作「マリー・ド・メディシスの生涯」など多くの作品を展示していました。
数多くの偉大な絵画に感銘を受けたドラクロワ少年は、美術館を出た頃には画家になることを決意していました。

画家の叔父アンリ・リーズネルの勧めでゲランのアトリエに通うことになったドラクロワは、そのアトリエでイタリアから帰国したジェリコーと親交を結びます。
自分の持つ気質に近いジェリコーを実の兄のように慕い、二人はよく一緒にルーブル美術館でルーベンスの絵画を模写したそうです。

また、少年時代からヴァイオリンを嗜み、音楽の才能も持ったドラクロワでしたが、父親の死によって音楽の道は閉ざされてしまいます。
しかし音楽への愛情は失わず、ヴァイオリンはどんなに苦しい生活なっても売らずにアトリエの隅に常に置いてあったと言われています。
のちの音楽家「フレデリック・ショパン」との友人関係も有名で、ショパンのもとを訪れては音楽談義に花を咲かせていたそうです。
(ショパンのためにドラクロワは自分のアトリエにピアノを置いたほど、仲が良かったようです)

(※1)シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール。フランス第一帝政期にナポレオンに仕えるが裏切って王政復古後も外相、首相と政治の座に就いていた。一言で言えばたぬき

ドラクロワ作「フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの肖像」
ショパンとその恋人の女流作家ジョルジュ・サンドとドラクロワは親交を結び、 ドラクロワは彼らの別荘にお呼ばれするほどの仲でした。
この二枚の絵はもともとは一枚の絵でしたが、半分に切られています。(目的不明)
絵画が示すとおり、ショパンとサンドは破局しました。
ショパンの肖像はルーブル美術館に、サンドの肖像はデンマーク王立美術館に。現在も別々に所蔵されています。
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