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メデューズ号の筏
1819年
テオドール・ジェリコー
ルーヴル美術館

民衆を導く自由の女神
1830年
ウジェーヌ・ドラクロワ
ルーヴル美術館

キオス島の虐殺
1824年
ウジェーヌ・ドラクロワ
ルーヴル美術館

ジェリコーの死
1824年
アリ・シェフェール
ルーヴル美術館

The Artist's Left Hand
1823年(?)
テオドール・ジェリコー
ルーヴル美術館
(病床で描いた自身の手)

以下、ドラクロワが私的に書いた日記より、ジェリコーに関する項目を一部抜粋する
・1823年12月30日
(略)数日前の夜、私はジェリコーを見舞った。何という悲しい晩だったろう!
今にも死神が取っつきそうな彼、ふた目とも見られぬやせ方、両ももは私の腕ほどの太さに細り、顔は死ぬ前の老人そっくり、 何とも恐ろしい変わり方である
私は彼がもと通りになるよう心をこめて祈ったが、いまやその望みは薄い。
前に私は、彼の作品…殊に「銃騎兵(歩兵士官の肖像)」にはひどく感激して帰ってきたものだ。
あれは一里塚だった、見事な習作だった!
何たる堅固さ、卓抜さであることか!
今では人の助けなしには1センチの寝返りもうてそうにない彼は、あらゆる活力と性急でもって描きあげた青年時代の 作品の傍で、死を迎えようとしている

銃騎兵(歩兵士官の肖像)
1814-1815年
テオドール・ジェリコー
ルーアン美術館

・1824年1月27日
今朝、気の毒なジェリコーの死を報じた手紙をアトリエで受け取った。
本当とは思われない。
だれでもいつか死ぬことは確かであるのに、私はこの考えを遠ざけるらしい。それは死を呪うのと変わりがないようだ。
彼のたくましい体力、情熱、想像力は並々ならぬ運命を暗示したように思われたではなかったか?
彼が私の友人であったとはいえぬかも知れぬが、この悲報は私の心を突き刺す。
それで仕事が手につかず、描いたものはみな消してしまった。
スーリエ、フィルディングらと一緒にトータン(※←レストランの名前)のところで晩飯を食べた。
気の毒なジェリコーよ、私は君のことをいつまでも思い出すだろう!
君の魂が時々仕事中の私のまわりにやって来るような気がしてならぬ。
では、さようなら、気の毒な青年よ…

「ドラクロワ」坂崎坦著 朝日選書(朝日新聞社) より抜粋

・1824年4月1日
ジェリコーのマスク(※)をみた。それこそ真の記念碑である!
私は接吻したかった。彼のひげ…まつげ…。そして彼の卓越した「メデューズ号の筏」!
なんという手腕、なんという頭脳!彼が私にふきこんだ尊敬と信頼は口で表すことができない。
短く小さい筆で描くこと。油に水分が多すぎるのは禁物。
急にジェリコーの絵をデッサンしたくなる。
だが、まず自分の絵を急ごう。あの偉人の思い出は、実に優れた手本であり、実に尊い!

「ドラクロワの日記」ウジェーヌ・ドラクロワ著 中井あい訳 二見書房 より抜粋

※ジェリコーの死後、彼のもとに集まった友人達は故人の顔の型をとった。
ブロンズでできたこのデスマスクはジェリコー生誕の地、フランス西部に位置するルーアンの美術館に買い取られ現在も所蔵している。
(注:この注釈は筆者個人によるもの)

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