12話
1819年のサロン・ド・パリでは二枚の絵画が注目を集めていました。
一枚は「新古典主義」の画家ジロデ・トリオゾン作「ピグマリオンとガラテア」
そしてもう一枚は「ロマン主義」という新しい絵画を描いたテオドール・ジェリコーの「難破の情景」。
ジェリコーは批難をさけるため、作品のタイトルを「メデューズ号の筏」から「難破の情景」と変更しサロンへ出品しました。
1819年のサロン・ド・パリのようす。
中央に「メデューズ号の筏」が展示されている
しかし、主題を見誤る者はおらず、作品は「絵画芸術」ではなく、「政治スキャンダルを主題にした絵画」として
注目されてしまいました。
保守的な批評家ドレクリューズは「メデューズ号の筏」を「高貴といえる主題を欠いた絵にすぎない」と「死体の山」に嫌悪感を抱いて批判し、
ジロデの作品を「神のごとき」と褒め称えました。
大衆はジェリコーが表したことを理解せず、失望した画家はある友人宛てにその気持ちを綴っています。
「(略)画家はそこでは喜劇役者の務めを果たし、新聞と新聞記者から発せられるあらゆることに完璧に無関心でいる訓練をしなければなりません。
(略)結局私は、表現の力で、海軍省全体を誹謗したと、いわゆる『白旗』に非難されたのです。そんな馬鹿げたことをかく不幸な者たちは、おそらく
14日間絶食したことがないのです。なぜなら、絶食していなければ彼らは、詩も絵画も、筏の人々が陥った苦悩のすべてを十分な恐怖感をもって表せる
とはわからないでしょうから」
ジェリコー展図録「テオドール・ジェリコーの生涯と作品」フィリップ・グランシェク 著 山梨俊夫 訳より抜粋
1819年のサロンは結局ジェリコーが望んだものと程遠い結果に終わり、「メデューズ号の筏」はなんとか金碑を授けられましたが、
ジェリコーには何の名声も与えられませんでした。
サロンの最終日、国王のルイ18世は自らジェリコーに賞碑を渡し、王自らジェリコーに「聖心のイエス」の制作を依頼しましたが、契約書をドラクロワにサインをさせて、その依頼を譲ってしまいました。(※1)
「メデューズ号の筏」はルーヴル美術館が積極的に買取意欲をしめし、コレクションに加えましたが、
それは"問題作"を封印するためであり、倉庫に運ばれた「メデューズ号の筏」は展示もされず、
美術館側はジェリコーに絵画の代金も支払いませんでした。
絵画の政府の買い上げを期待していたジェリコーの希望は裏切られ、大いに落胆し
そして8ヶ月におよぶ並外れた仕事を成し終えて神経が疲れ果てたジェリコーは病に倒れ、
ジェリコーの家系に流れる狂気の血(※2)に襲われたのか、鬱病が発症し、強烈な無気力から立ち直れず、
ジェリコーはついに自身の画家としての生命を終えることを考え始めます。
(※1)ドラクロワが制作した作品は現在コルシカ島のアジャクシオ大聖堂が所蔵している。(ちなみにコルシカ島はナポレオンの出身地)

(※2)母方の祖父、おじ、いとこが精神布施療院に入り、そのいとこは狂死。また、ジェリコーの私生児ジョルジュ・イリポットも精神不安定を
患っていた。